2007年12月26日
のどもと過ぎれば?
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地震も津波も起きたときはあんなに怖くて
対策に必死だったのにね。
人間ってのどもと過ぎちゃうと忘れるのもなのですね。。。
イザニュースより
インド洋沿岸各地で約23万人が死亡・行方不明となったスマトラ沖地震とインド洋大津波から26日で3年。約3万5000人が犠牲になったスリランカでは、なぎ倒されたヤシの木の代わりに広告の看板が立ち並び、観光客の笑い声が戻っていた。住民たちはあれほど怖がっていた海辺で暮らし始め、幾多の「ビーチホテル」も開業を再開した。「ツナミ」の恐怖は風化してしまったのか。(ヒッカドゥワ=スリランカ南部 藤本欣也)(藤本記者のブログはこちら)
2004年12月26日午前9時20分、ヒッカドゥワに高さ5メートルを超す津波が押し寄せ、停車していた列車があっという間に飲み込まれた。乗客ら約1270人が犠牲になり、インド洋大津波がもたらした惨事の象徴ともなった。
最初にこの地に来たのは被災2日後。一帯は沼地と化して異臭と廃材に包まれ、近づける状況ではなかった。被災約1カ月後に再訪したときは、すべてを流された自宅跡に呆然(ぼうぜん)と座り込む被災者たちの姿があった。
そして3年。みたび現場を訪れると、線路わきで若い男性が泡だらけになりながら身体を洗っていた。波の音しか聞こえない静かな昼下がり。周囲には新しい家屋と学校がたち並んでいた。
■■
現場から車を少し走らせると、「ツナミ早期警報センター」という看板が見えた。米国人女性の援助で運営されている。
地元住民のワドゥタントリさん(35)ら6人のメンバーが24時間、地震・津波情報の収集に当たっていた。ひとたび津波情報をキャッチすると、設置したスピーカーで放送する一方、「バイクに飛び乗って村々を回り、拡声器で避難を呼び掛けているのです」(ワドゥタントリさん)
彼自身も親族7人を津波で失った。憲兵から転身したのは、「どうしてあれだけ多くの人が死ななければならなかったのか」との思いからだ。
一方、住民の意識はどのように変わったのか。
3年前、スリランカ政府は「津波の被害を繰り返さないため、海岸から100メートル以内の居住を禁じる」との緊急対策を打ち出したはずだった。
しかし南部最大の被災地の1つ、ハンバントタでは、砂浜に点在する廃屋に住民たちが舞い戻っていた。2キロほど離れた場所に新たな家屋を支給されたのだが、漁業従事者にとっては海岸近くに住むのが便利なのだ。
「娘が怖がるけれど仕方ないわ」。夫を亡くし、漁師の義兄と浜辺で暮らすレッチェミさん(45)はつぶやいた。
■■
ヒッカドゥワの近くに今年3月、「ツナミ写真ミュージアム」がオープンした。被災直後の写真など約1000枚が狭い小屋に展示されている。
責任者のカマニさん(34)によると、児童たちが課外学習で訪れることもあるという。もともと、ここは彼女の自宅があった場所だ。すべてが流されてしまった。
「人間はすぐに忘れてしまう生き物です。再びツナミが襲ってきたら、どうすればいいのかを学んでほしい」
彼女も多くのことを経験したのだろう。津波の話を始めると、表情は憂いを帯び、目がうつろになった。オランダ人女性の援助で運営している。
夕刻、ミュージアムの近くで、薄汚れた幕が掛かる廃屋を見つけた。
「この土地売り出し中。リゾートの理想がここに」。冗談かと思ったが、持ち主のウィラセカラさん(77)は大まじめだった。妻と子供を津波に奪われたという。
「宣伝を始めて3カ月たつが、まだ買い手がつかない。こんなに夕日がきれいなのに…」
忘れようとする心と、忘れまいとする思い。津波から3年の被災地はなお揺れていた。
◇
【用語解説】スマトラ沖地震と対策
震源はインドネシアのスマトラ沖でマグニチュード(M)9・0。インド洋大津波も発生しインドネシア、スリランカ、インド、タイ、マレーシア、アフリカ東岸を襲った。スリランカ政府は沿岸にサイレンを設置し、村単位で災害対策チームを組織。情報を迅速・確実に伝達できる無線システムの拡充が課題だという。観光、漁業は8割以上回復、住宅も7割以上に支給されたとしている。
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スマトラ沖地震 地震 津波 TUNAMI インド洋大津波
対策に必死だったのにね。
人間ってのどもと過ぎちゃうと忘れるのもなのですね。。。
イザニュースより
インド洋沿岸各地で約23万人が死亡・行方不明となったスマトラ沖地震とインド洋大津波から26日で3年。約3万5000人が犠牲になったスリランカでは、なぎ倒されたヤシの木の代わりに広告の看板が立ち並び、観光客の笑い声が戻っていた。住民たちはあれほど怖がっていた海辺で暮らし始め、幾多の「ビーチホテル」も開業を再開した。「ツナミ」の恐怖は風化してしまったのか。(ヒッカドゥワ=スリランカ南部 藤本欣也)(藤本記者のブログはこちら)
2004年12月26日午前9時20分、ヒッカドゥワに高さ5メートルを超す津波が押し寄せ、停車していた列車があっという間に飲み込まれた。乗客ら約1270人が犠牲になり、インド洋大津波がもたらした惨事の象徴ともなった。
最初にこの地に来たのは被災2日後。一帯は沼地と化して異臭と廃材に包まれ、近づける状況ではなかった。被災約1カ月後に再訪したときは、すべてを流された自宅跡に呆然(ぼうぜん)と座り込む被災者たちの姿があった。
そして3年。みたび現場を訪れると、線路わきで若い男性が泡だらけになりながら身体を洗っていた。波の音しか聞こえない静かな昼下がり。周囲には新しい家屋と学校がたち並んでいた。
■■
現場から車を少し走らせると、「ツナミ早期警報センター」という看板が見えた。米国人女性の援助で運営されている。
地元住民のワドゥタントリさん(35)ら6人のメンバーが24時間、地震・津波情報の収集に当たっていた。ひとたび津波情報をキャッチすると、設置したスピーカーで放送する一方、「バイクに飛び乗って村々を回り、拡声器で避難を呼び掛けているのです」(ワドゥタントリさん)
彼自身も親族7人を津波で失った。憲兵から転身したのは、「どうしてあれだけ多くの人が死ななければならなかったのか」との思いからだ。
一方、住民の意識はどのように変わったのか。
3年前、スリランカ政府は「津波の被害を繰り返さないため、海岸から100メートル以内の居住を禁じる」との緊急対策を打ち出したはずだった。
しかし南部最大の被災地の1つ、ハンバントタでは、砂浜に点在する廃屋に住民たちが舞い戻っていた。2キロほど離れた場所に新たな家屋を支給されたのだが、漁業従事者にとっては海岸近くに住むのが便利なのだ。
「娘が怖がるけれど仕方ないわ」。夫を亡くし、漁師の義兄と浜辺で暮らすレッチェミさん(45)はつぶやいた。
■■
ヒッカドゥワの近くに今年3月、「ツナミ写真ミュージアム」がオープンした。被災直後の写真など約1000枚が狭い小屋に展示されている。
責任者のカマニさん(34)によると、児童たちが課外学習で訪れることもあるという。もともと、ここは彼女の自宅があった場所だ。すべてが流されてしまった。
「人間はすぐに忘れてしまう生き物です。再びツナミが襲ってきたら、どうすればいいのかを学んでほしい」
彼女も多くのことを経験したのだろう。津波の話を始めると、表情は憂いを帯び、目がうつろになった。オランダ人女性の援助で運営している。
夕刻、ミュージアムの近くで、薄汚れた幕が掛かる廃屋を見つけた。
「この土地売り出し中。リゾートの理想がここに」。冗談かと思ったが、持ち主のウィラセカラさん(77)は大まじめだった。妻と子供を津波に奪われたという。
「宣伝を始めて3カ月たつが、まだ買い手がつかない。こんなに夕日がきれいなのに…」
忘れようとする心と、忘れまいとする思い。津波から3年の被災地はなお揺れていた。
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【用語解説】スマトラ沖地震と対策
震源はインドネシアのスマトラ沖でマグニチュード(M)9・0。インド洋大津波も発生しインドネシア、スリランカ、インド、タイ、マレーシア、アフリカ東岸を襲った。スリランカ政府は沿岸にサイレンを設置し、村単位で災害対策チームを組織。情報を迅速・確実に伝達できる無線システムの拡充が課題だという。観光、漁業は8割以上回復、住宅も7割以上に支給されたとしている。
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